このブログはゲームとかのブログです
一番居心地いいので別のブログから引っ越しました。
ゲームが好きです。ボードゲームから最新機種、steamまで。
あと稀に二次創作SS書きます。
2016年位からラブライブ!サンシャイン!! って作品に足を取られて沈みました。まだハマりきっていて浮かぶ気配がないです。
Twitterアカウントはコゴリオン (@kogolion) | Twitterです(本名)。
作品でもなければ、ツイートにしにくいような文章を、思いついた端から書いていきます。どうぞよろしくお願いします。
俺は俺にとっての聖地巡礼の意義をはき違えていたのかも知れない
先日、沼津に行った。ラブライブサンシャインの聖地巡礼を主目的とした、二泊三日の小旅行である。二日目に、三年生推しの友人Aとまだ初心者の友人Bと合流し、奮発して安田屋旅館に宿泊した。
結論から言えばとても楽しい旅行で、仕事の量が増えた昨今の疲れを吹き飛ばす最高のイベントだったのだけれど、「聖地巡礼」の観点では自分の中に明確な変化を感じ取ったのでその事を中心に書いておきたいと思う。そのため、この記事は旅行記ではないということをあらかじめ断っておく。
『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を読んだ感想
「読んでいない本について堂々と語る方法」という本を読んだ。
以下に感想をまとめておく。
- 作者: ピエール・バイヤール,大浦康介
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/11/27
- メディア: 単行本
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著者は文学教授の身ながら、厚顔にも「読んでいない本について堂々と語る」という行為を積極的に推奨している。そして、その方法について語っているのが本書だ。
そのお遊び感あるタイトルとは裏腹に中身は高度で、読書とはなにか、感想とはなにか、教養とはなにか、という問いを深めてくれる。
食事が全て面倒になる鬱ごはん感想
施川ユウキの漫画、『鬱ごはん』の感想です。
主人公の鬱野たけしは就職浪人の無職(22。最新巻では31になってる)。親からの仕送りも減りつつあって孤独が深まる彼も、死を避けるためには食事をするしかない。彼にとって食事は生命維持活動であり、美味しいという感覚はグルタミン酸のもたらす神経反応にすぎない。彼は、ある日は鬱々とファーストフード店に足を運び、ある日は足りない道具を雑に補って自炊をし、またある日は身分も弁えずに出前を取る。そしてそのがさつさと周囲への肩身の狭さから、ただでさえ鬱屈とした食事をますます台無しにするアクシデントが引き起こされたりする。
勿論食事の九割以上はぼっち飯で、上記のように据え膳はお粗末の一言。そもそも大学時代ロクに友達も作らず自堕落に過ごして就職浪人になった鬱野が、格調高い飲食店に一人で入る心意気などあろうはずもない。しまいには時々頭の中でイマジナリーフレンドの黒猫が、「だからお前はダメなんや」と関西弁でなじってくる始末。そんな、食欲など一ミリも刺激されないグルメ漫画です。
「食事の間だけでなく、人生が常に孤独な人間のグルメ」と言った感じ。面白いのかって思うでしょう。面白いんだな。少なくとも僕には。
施川ユウキの作品を初めて読んだのは、読書しない読書漫画である『バーナード嬢曰く。』だったのだけれど、最近はどんどん切れ味が増していると思う。この鬱ごはんも、三巻になると独白の冴えが凄まじい。「食事中黙らせるために神は喋る器官で食物を摂取するように人の体を造った。食レポも会食もきっと神の意志に反する」とか。
※これ書いてる途中に作者のインタビュー記事が出てきちゃって、凄く良くできているのでとりあえずそっちをおすすめしておきます。
共感してしまうことに矛盾があるコンビニ人間感想
――皆が不思議がる部分を、自分の人生から削除していく。それが治るということなのかも知れなかった。
(※ネタバレを含みます。あと、読み違えがあったらこっそり教えてください)
会社の上司に初めてキャバクラに連れて行ってもらった時の日記を掘り起こした
※文章の練習、及び好きなロックバンドの宣伝のつもり。
「好きな動物は?」という質問に対して僕が答える時、思い描く動物たちはいつもイラストの形をしている。
僕は金魚とカラスが好きだ。特に金魚は結構好きで、毎年恒例になりつつあるアートアクアリウムには一人で累計3回入ったし、金魚をモチーフにした樹脂作品を作っている深掘隆介の個展にも2年ほど前に行った。
だが、金魚すくいはしたことがない。金魚を飼うつもりは毛頭ないのである。
僕が愛しているのは納涼の象徴としての金魚であり、和紙の上に活き活きと紅で描いた金魚であり、品種改良を経ておよそ生物とは思えないほどの美しさを手に入れた神聖な生物としての金魚なのである。安い鉢の中で切れの悪い糞をする金魚は見たくない。
同じことはカラスに対しても言える。美しい黒さの代名詞となるカラスの濡れ羽が好きだ。堅い木の実を道路に落とし、車に轢かせてから中身を啄む狡猾さが好きだ。執拗に敵の目を狙って攻撃をする卑怯さが好きだ。だが銀座の生ゴミにまみれたカラスたちに近付きたいなどと思うはずもない。
要するに僕は、その動物が「生き物として」好きなわけではないのである。その生き物を抽象したものが好きだ。
みんなはそう思わないのだろうか? 想像の中の金魚は実際よりもずっと雅で、美しく、縦横無尽に水の中を舞う。空も飛んだりする。そこだけを愛することは、金魚を一番良い状態で固定することになるわけで、最も美しく世界を彩る考え方だと思っている。
とはいえ、この考え方はとても危険であることもまた事実なり。「○○そのものでなく、捨象した○○だけを愛していたい」というこの伏せ字に『恋愛』とか『異性』などといった単語を当てはめてしまった人間がどういう悲惨な人生を送るかは目に見える。時として、自分が捨象してしまったものに焦点を当てることもやはり必要だ。幻想の世界に生き、好きなものを都合良く解釈して悦に浸るだけでは人生を充分に楽しめない。人は一人で生きているわけではないのだから。
このような理由から、僕はキャバクラに行った。お分かりだろうか?