コゴリオン

最近はラブライブサンシャインとか嵌まってる。ハースストーンと東方は今も好き

俺は俺にとっての聖地巡礼の意義をはき違えていたのかも知れない

 先日、沼津に行った。ラブライブサンシャイン聖地巡礼を主目的とした、二泊三日の小旅行である。二日目に、三年生推しの友人Aとまだ初心者の友人Bと合流し、奮発して安田屋旅館に宿泊した。
 結論から言えばとても楽しい旅行で、仕事の量が増えた昨今の疲れを吹き飛ばす最高のイベントだったのだけれど、「聖地巡礼」の観点では自分の中に明確な変化を感じ取ったのでその事を中心に書いておきたいと思う。そのため、この記事は旅行記ではないということをあらかじめ断っておく。
 

 

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 旅程は以下の通り。
 
 一日目:三島駅から駿豆線乗車、伊豆長岡駅からバスで弘法の湯に入り、温泉駅のバス停からいけすやを経由してはまゆう沼津(非聖地)に宿泊。チェックイン後は東郷海水浴場の海岸を歩いて芹沢光治良記念館や分校舎、我入道公園の草野球場などを観光。
 二日目:朝から友人Bと沼津駅で合流。主に僕道関係の施設を巡礼しつつやば珈琲で一休みをし、マンホールを見た後は沼津港へ。深海水族館(非聖地)でテンションを上げて丸天のかき揚げ丼にチャレンジして勝利、タップルームのベアードブルーイング(非聖地)で千歌をモチーフにしたペールエールを一杯引っかけて沼津駅にとんぼ返りし、友人Aと合流。友人Aは午前中に謎解きに参加していた。
 そのまま安田屋旅館に移動。三津海水浴場で「勇気はどこに? 君の胸に!」をBGMに日没を眺め、夕食後は長井崎中学校の巡礼。BGMは「卒業ですね」。夜の内浦湾沿岸を歩いて宿に戻り、入浴後は自室で劇場版やG'sや総合マガジンを鑑賞。就寝。
 三日目:朝風呂と朝食を終えた我々は荷物を預けて三津シーでイルカや山田トレーナーの勇姿を目に焼き付けて、徒歩で淡島へ。道中、津波対策用の避難階段を登る(非聖地)。淡島の離宮で昼食を取り、神社とアシカショーとブルーケイブを観光したほか、ホテルの入り口が開放されていたのでそちらも観光。水族館で時間を潰して陸に戻り、バスで駅へ。帰りの東海道線のボックス席ではスマブラが繰り広げられる(非聖地。でも一年生が東京に行く時に善子が用意してそうなところはある)。
 
 夏の最後のあがきの中で見る三津シーや淡島は、これまで見てきた記憶のどれとも違う情緒があり、やはりここに来るのは楽しい。それに、友達と一緒に巡礼するから移動時間に飽きることもないし新たな発見もある。来て良かった、と、観光している最中は本心からそう思っていた。
 ただ、マリンパークから沼津駅までの帰りの最後のバスに乗っている間に、なんだか急に寂しくなり、少し泣いた。この記事はその「なんだか」の理由について考えたものです。
 僕は、僕にとっての聖地巡礼の意義をはき違えていたのかも知れない。
 
・過去を見るために巡礼しているのでは無かった。
 アニメで出てきた風景を訪問する「聖地巡礼」という単語がいつ発祥し、どのようにしてメジャーなオタク活動となって来たのかという経緯は今回あまり関係ないので調べはしない。ただ、僕の知る限りその活動は、「アニメの中の人物が行った場所に実際に行ってみる」という紹介のされ方が主流だと思う。
 僕はその活動の意義を、「アニメキャラクター達が見てきた景色を見ることで、キャラクターが抱えている見えない情報を更新するため」という風に捉えていた。プロフィール欄には書いていないキャラクターの行動を追体験することで、「あの子達はこの風景を見たことがあるんだ」という事実を自分の中に落とし込むと、自分の中にある彼女らの存在感をより強固にできる。
 けれども今回、自分の中でその更新が行えなかった。初めて見に行った場所があったのにもかかわらず、である。
 
 安田屋旅館二階の部屋でくつろぎつつ、「夏の終わりの雨音が」を聞いていると、まるで今窓から顔を出せば砂浜を歩いて歌詞を考えている千歌を見ることが出来るような気がしてくる。
 いない。
 夜が明けて、潮騒しか聞こえない広縁からちょっと外を見れば、日課のランニングをしている果南の姿を捉えることが出来る気がしてくる。
 いない。
 淡島ホテルの庭から最上階を見上げても鞠莉はいない。
 着衣したまま三津浜をひとしきり泳いで、上がった後でシャツを絞る曜もいない。
 長井崎に向かう途中の、船に乗り込むための桟橋が軋む音に怖がるルビィもいない。
 温泉宿でプラスチックの籠を抱えて少しだけ足取りを軽くしているダイヤもいない。
 山を背にしている故に、自分の演奏が想定よりも街の色んな人に届いていることを後から知って恥ずかしがる梨子もいない。
 牛臥山の展望台で一人決めポーズを自撮りしている善子もいない。
 旅館にある太宰の間で控えめに本の匂いを嗅ぐ花丸もいない。
 Aqoursはいなかった。
 
 沼津に行ったのは十回弱程度だが、そのどの時もAqoursに出会うことは出来なかった。けれども、これまでの巡礼では全て僕がAqoursに会いそびれたと捉えていた。存在感を強固にするどころか、今回、初めてAqoursの実在を疑ってしまった。
 僕は別に狂っているわけではない。
 僕が聖地巡礼をするのは、「過去のあの子達の体験」を知りたかったからでは無くて、「未来にあの子達が体験するかも知れないこと」を知りたかったのだとその時初めて気がついた。
 つまり、その光景がアニメや雑誌に登場したかどうかというのはあまり重要では無くて、むしろこの光景を体験したことがあるあの子が、作品の外でどういうアクションを起こしうるか? という――語弊のある言い方になってしまうが――いわば二次創作のネタ集め、もしくは公式の先回りのためにやっていたことに気がついた。本編には存在しない過去話や隠れた趣味、日々の生活、あの時感じた気持ちの説明、そういうものが語られる未来を夢見て聖地を検めていた。
 だがその未来は、劇場版が終わったことによって公式で描かれる可能性が限りなくゼロに近くなった。
 これ以上聖地を巡礼して彼女らの生活に思いを馳せても、それが正解かどうかを知る可能性はほぼ無い。アニメのAqoursは、いくら脚本上では続いていようとやっぱり終わってしまった。その事に思いが至り、少し泣いた。まったく正気の沙汰だ。
 
・物語の強度
 これはまた改めて記事にする。
 僕の中で物語には強度があり、物語の強度はフィクションの完成度を決める尺度としている。
 物語の強度には大きく分けて、キャラクターの感情と背景が一貫しているかというマクロな強度と、その感情の描写が世界観に根ざしているかというミクロな強度から構成される。キャラクターが脚本家の都合で動いてしまったり、キャラクターの魅力を描くための事件が偶然に依存しすぎていたり、人間関係や感情表現の演出がテンプレ的で没個性的だと物語としての強度が落ちる。
 物語は映像や演出や音楽と比較すると地味な要素だ。けれども、物語は静かに確実にフィクションのフィクションとしての寿命を左右する。
 物語の強度が弱いと、そのフィクションは長期的な鑑賞に堪えられなくなる。何度も繰り返し鑑賞される内に、強度の弱い部分が浮き彫りになってしまい、そこから鑑賞者の没入感は薄まっていく。「フィクションだと知っていながらフィクションでないかのように没入して楽しむ」というファンへの魔法が効かなくなってくる。魔法が切れると「これはフィクションであり、架空の人物に対して投資をしてもこれ以上の楽しみは得られない」になる。
 没入の楽しみとは、想像と創造の楽しみだ。「フィクションだと言うことは知っているけれども、もし仮に、1億円の宝くじに1億回連続で当たるくらいの確率で、あるいは宇宙がもう一度爆発してもう一度全く同じ地球が生まれて全く同じ自分が生まれるくらいの確率で、あのキャラクター達が実在していたとしたら、あの子達はこういうことをすると思う」という、頭の中で描くキャラクター達を愛でることは、とても楽しい。そのために二次創作をする人達がたくさんいる。
(自分で書いておいてなんだが、全員がこういう楽しみ方をしているわけでは無いと思う。コンテンツの楽しみ方は非常に多岐にわたるし、それこそAqoursのライブは物語がどうとか以上に、デカい音と派手な光とひたむきな人物が目の前で繰り広げられるので、最初から見るのは気持ちがいいものだと約束されている)
 僕にとって聖地巡礼は足りない想像力を補う行為だった。その効果が、劇場版と5thライブを経たことによって一つの終わりを迎えた。
 5thが終わってからスランプに入っているのも多分それが原因だ。
 
・それでもAqoursを蘇生させたい
 ここで、ラブライブサンシャインは物語の強度として云々、と長く語るつもりはない。少しこのコンテンツに触れていればもの申したいことは山ほどあると思う。アニメとG's、アニメとライブ、あの世界のμ's、Finalをやらないということについて、感情解決されていないカップリング、海外でダイバーライセンスを取得するのに必要な日数について等々……ほら語りたくなっちゃう。でもやらないよ。
 僕は何があっても生み出されたキャラクターとしてのAqoursの味方でありたいと思ってる。公式の手によって作られてしまった以上、動かされてしまった以上、どれだけ歪でも、整合性を取るのが難しくても、それはあの子達なので、無下にはできない。
 僕はあの子達の味方なので、他人があの子達に対して強度の低い創作をしても基本的には寛容でいられる(言い換えるならば、地雷を作らないでいられる)が、自分の中にある彼女たちのイメージに、自分で矛盾してしまうことだけは避けたい。彼女たちに吹き込む自家製の生命を淀ませたくない。
 
・もうじきスクスタが出る
 本当に「もうじき」かどうかはさておき。
 スクスタのリリースに伴ってまたAqoursの、あるいはμ'sの、虹ヶ咲の物語が傷を負う可能性は充分にある。だとしても、人間の想像力は偉大なので、どこかにその傷を治す術があると信じるしか無い。僕が創作をするのは、自分の中にある彼女たちの物語を補強するためであり、想像の中にある彼女たちに生命を吹き込むためだ。
 今の所まだ自分の脳内妄想は瓦解していない。
 
 聖地巡礼には、創作と同じ想像の補強効果があったが、「アニメAqoursの活動拠点が沼津市街地になってしまった」と明言されてしまってからはあの海や山の力を借りるのは難易度が上がってしまった。
 単純に、友達と聖地巡礼するのは楽しいから、これから何度も行くことはあるだろう。そこで飯を食ったり酒を飲んだり海に入ったりしてリフレッシュすると寿命が延びる。
 友人Aよ、Bよ。付き合ってくれて本当にありがとう。君らとの巡礼の時間は本当に楽しかった。
 しかし、創作のネタ探しにこれ以上行っても、細かな間取りを認識するくらいであまり意味はない気がしてきた。ひょっとしたら、わざわざ一人で電車を乗り継いで巡礼に行くことはもう無いかも知れない。
 
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 こんなもん書いてないで作品で勝負するのが筋なのだけれど、最近本当に沈んでいたので簡単なブログで整理した。
 
 いやー、推しの高海千歌にどういう物語を用意してあげればいいのか全然分かんないんだよな。逆に分かっちゃったら他界すると思う。他の人の千歌に対する解釈って全部正しくて全部間違ってるように見えるんだよ。これは永遠の課題だ。