コゴリオン

最近はラブライブサンシャインとか嵌まってる。ハースストーンと東方は今も好き

共感してしまうことに矛盾があるコンビニ人間感想

――皆が不思議がる部分を、自分の人生から削除していく。それが治るということなのかも知れなかった。
 
 芥川賞受賞作品である、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を読んだのでその感想です。最近長めの感想を書いていなかったのでリハビリも兼ねて。
(※ネタバレを含みます。あと、読み違えがあったらこっそり教えてください)
 

 

 
 アウトラインを先に書く新しい試みをしてみるよ。
・面白かったです。それに、自分が書く文章とはかなり乖離した作風であるがゆえに勉強にもなった。
・登場人物にリアリティがあるかどうかはさておき、行動に納得できるか否かであれば完全に納得できる。どちらかというとエンタメの理論だが。
・歳を重ねても面白いものを書き続けられる作家というのはこの手の「徹底した思考」を売り出し始めることが多い気がする。
・しかし、この本が売れること自体に違和感がある。というか、売れてしまったらテーマの謎が深まってしまう。
 
・あらすじ
 主人公の古倉は30を過ぎたコンビニアルバイトの女性である。周りの人間は結婚しろ就職しろだの言うが、古倉にとってそんなことは重要じゃない。大事なのは、在庫を残さず食品を売り切れるか、怪我せず失敗せずコロッケを揚げられるか、周辺地域の工事情報を調査して、昼食の発注量の予測できるかなどだ。
 生まれつき、社会にとっての正しい振る舞いが分からず、世の中を回している「共感」や「持ちつ持たれつ」という概念が分からなかった古倉は、死んでしまった小鳥を焼き鳥にしたら美味しいと言うし、小学生の喧嘩を収めるためにスコップでぶん殴ったりもする。コミュニケーションやリアクションの正解が分からないから、バイト仲間の喋り方とかを見て、模倣することでコミュニケーションを成立させている。
 彼女はきっと、この頃はやりの発達障害と診断されるような人物だろう。そんな彼女にとって、コンビニのアルバイトは、自分自身を社会の部品にしてくれる唯一の存在であった。だから、そうやって生活することしかできない。周りの人間は当然認可しないが、そのことすらも古倉は冷めた目で見つめている。
 店長からは頼りにされていて、新人バイトの入れ替わりは激しく、新しくシフトで入った中年男性はどうしようもない。そんな日々がずっと続いている。
 
・率直な感想
 面白かったです。問いをガンガン深める系の作品は好きだ。そして、「普通って何?」という長く愛されるテーマについて、コンビニエンスストアのアルバイトという切り口から問い始めるのは新鮮で、無機質な文章との相性が抜群だった。皆が苦悩しているような普通とか社会のおかしい所(でも、どうにもならない所)にぐんぐん踏み込んで、正確な言葉に変換していくのは痛快で、まさに「良い小説」って感じでした。どうやったらこんな流れるように語れるんだろうね。
 このように素晴らしかった小説ですが、かと言って、全てが全てパーフェクトで、自分の墓に入れたい! って思うほど好きになった作品ではないです。そういうのは出来の良し悪しだけでなくて、作者と読者の感性が完全に共鳴しないと起こらないものですから。
 
・文体
 文体の技法について、専門的な用語は全然分かりませんが、結構特徴的だと思った。解説にも書いてあったけど、五感に訴えかけるようなものが多い。あと「膜」って単語を多用しているのは面白いね。他の作品でもそうなのかな? 自分も今度真似してみよう。行動の描写で言えば、古倉が理不尽な目にあったり捲し立てられたりしても、感想を持たずにただぼんやり光景を眺めているシーンが多いのが印象的だった。この辺はキャラクターに上手く乗っけてるよなあ。
 純文学らしく、モノローグでは度々人間観察というか、人間ってこうだよね的な主人公の言説が繰り広げられるのだけど、その的確さについては可もなく不可もなくといった具合だった。例えばこの記事の冒頭で挙げた「治るとは」という話には納得感があったけど、「差別したがる人間は、一様に面白い眼をしている」っていうのには本当か? って思いがあった。でもこれって例え本質を突いていなくても、「人の表面を観察するのが得意な古倉さんなら考えそうなことだ」と思わせてくれるので問題はない。
 
・人物
 全体的に戯画化されている人物像だ。古倉にしても、白羽にしても、その取り巻きにしても、こんな極端な性格をした人間がいるだろうか(類型としてはいるかも知れないけど、行動のスピードとかがぶっ飛んでるな)? という話で、ドラマチックにするためにかなり極端化している手法は僕の感性とは合わない。けれども、最近はこういう分かりやすさが流行になっている気もする。
 登場人物が現実的かどうかはさておき、彼らの言動に「物語として納得できるか否か」であれば、完全に納得できる。やたら縄文時代の話をしだすのにもしっかり理由付けがされているし。短い話の中に、登場人物のらしさというのがそこかしこにあった。デビューしてからの活動が長い人は、こういう思想の徹底ぶりがウリになると思っている。
 
・書かれていないこと
 小説において、書かれていないことは書いてあることと同じくらい大切なことだ。問いを深めるために両論併記をしなければならない決まりなんてフィクションの作法にはない。話をわかりやすくするため、テンポよく読んでもらうために削られる視点はきっとたくさんある。
 書かれていないこととして僕が面白いと思ったことは、三つ。
 一つは、ラスト間際のシーン、妹が押しかけてくるところで、謎理論ながらも社会性を発揮して誤魔化そうとする白羽に対する古倉の感想。これが一番印象的だった。「ああ白羽さんもこういうことできるんだ」的な文章が挿入されると思ってたらいつまで経っても出てこない。古倉は意図的に考えないようにしているのか、それとも本当に何の感想もないのか、僕は後者で解釈したが、散々他のコンビニ店員が持つ社会性について鬱陶しさを感じていた古倉があえて言わないというこの書き方は凄いと思った。
 もう一つは、感情以外で古倉を詰める人間の不在。通常、古倉の周囲にいて、結婚や就職を勧める大多数の人間というのも一枚岩ではない。社会にとってのあるべき姿を数値で語る人も、孤独死の恐ろしさに訴える人も、逆に面白がって友達になろうとする人も世の中にはいる。そういう人種を排除して普通VS古倉という対立の構図を強調しているのは、やはりこの作品は書きたいテーマを明確にしたいということなのだろう。話をこれ以上長くする場合、そういった人物が出てくることになるのだと思う。
 三つ目は、「思考停止」という単語が鳴りを潜めていること。「実は問題を先送りにしているだけ」という捉え方をする人がきっと作中に出てくるだろうと思ったんだけど、その「焦っているはずだが何をしているのかわからないから考えるのを放棄している」という捉え方は古倉の中には全く無かった。そう推測してしまうこと自体が、作中で正常な人間がやっている勝手なストーリー作りなんだな。「思考停止も何も、本当に理解しがたい価値観なんだからその価値観に沿った結論なんてものは出せない」このスタンスは忘れないようにしたい。
 
・一番面白かったこと
 これを読んで面白いと感じる読者達って、「どっち側」なんでしょうね。古倉達に加担するのか、周囲の人間みたいに批判したがっているのか。僕はどっちかというと古倉の味方のつもりで、大多数の読者もそうなんじゃないかと思ったんですがちょっと自信がなくなってきた。
 何故かって、周りを見回してもどこにもそんな感じの人が見当たらないからです。「分かる分かる、社会って窮屈だし、あっという間に人格は社会に向けてめきめきと矯正されるよねー。古倉さんの大変さが私には分かる」という感想を持っている人が職場にいたら、おかしいって思いません? じゃあなんであなたは就職してるんだって話になるじゃないですか。
 この本が芥川賞という日本の文芸の最高賞を受賞し、広く世に出回って認められているってことは「この本に共感している人」というのがかなりいるはずで、じゃあその読者は作中で言えば誰の立場になるのだろう? 誰もが誰も古倉や白羽のような生活を送っているわけではなくて、「登場人物の悩み(社会性によって矯正されることのやるせなさとか)を理解していながらも、それを撥ね付けるのは理想論だとみなして現実と折り合いをつけている層」だと感じられる。
 それは、作中の人物に例えると誰に相当するのだろうか。作中にそういう人物は登場していないのか、それとも、結局そういう読者も現実では無意識に古倉の同級生のように、異物を排除するような言動をとっているのか、それが気になる。古倉が考えている内容に社会人の読者が共感することは、それ自体が矛盾を生み出すことになりはしないか? どうやってその共感に折り合いをつけるんだ?
 あなたはどうしていますか?
 
(もし続編を書くならそれがテーマになると思う)