コゴリオン

最近はラブライブサンシャインとか嵌まってる。ハースストーンと東方は今も好き

友人の結婚式の二次会に出席した話。並びに、他人を評価することを「何様」と評することについて

※自分用記事です。

 

 大学時代の友人の結婚式に出席してまいりました。私は彼のことを本当に尊敬しているのですが、遊んだ回数や付き合いの深さという意味では私はまだ二友等(そんな単語はない)らしく、二次会からお誘いを受けました。

 

 式自体は楽しく盛り上がり、新郎新婦とも愛されていることが実感できたし、それを見届けることができたのは一人の友人として冥利であるなと思いました。

 昨今では挙式する新郎新婦はガンガン減少していて、ブライダル業界の皆様におかれましては苦戦されているようですが、やはり自分が純然たる主役となれる数少ない機会の一つですし、冠婚葬祭という家族イベントの四天王を担うので、やる価値のあるイベントだと思います。未婚が何言ってんだって話ですが。

 

 

 さて、新郎の彼は非常にクレバーな男で、特に「自分の欲求を正しく見出し、その実現のために最適な手段を作り出す」という能力については私の知る限り白眉です。彼のようになるにはどうしたらいいかと考えたことも少なくありません。

 その一例として、彼はこの度の結婚相手を作る前に、「結婚相手に求めることリスト」を作っていました。その項目は10はあったかと思います。各項目は凄まじく納得感のあるもので、いくつか例を挙げると、

・感情を理性で制御できる。少なくとも制御しようと努力している

・一つのことに熱中した経験がある

・一人でいると楽しい。でも二人でいるともっと楽しい

どれもこれも「それな」としか言いようがない。

 お察しの通り、この度結婚された方は見事その要求項目を満たす女性だったわけです。

 しかも彼らの出会いのきっかけは、たまたま書店だか喫茶店だかで隣り合った所からスタートしているそうですので、まあ普通の人間だったらそこから添い遂げるどころか、会話を発生させることすら至難の技でしょう。しかし彼は女性の読んでいる本が独特だったことから(小説と学術書と絵本がちぐはぐに抱えられていたとかなんとか)彼女に興味を持ち、それから2年もせずに添い遂げたんだから本当に凄い。

 

 さて、本題は、この『「結婚相手に求めることリスト」を作ることは悪いことなのか』ということで。

 まず、「そもそも作った方がいいのか」という話なのですが、まあ普通に考えて、作ることにはメリットしかないです。

  1. 自分の欲求や哲学、得意(苦手)なライフスタイルなどを整理することができる。
  2. なあなあで相手のチェックを怠って、結婚してから失敗に気付くことを防げる。
  3. 相手がリストに合致しないと分かった時に、機械的に候補から外せるので時間の無駄にならない。

 パッと思いついただけでもこれくらいあるので、作ったほうがいいに決まっている。

 

 ところが、この行為に対してなんとなく抵抗を感じるというか、リストを作る行為を卑しいことだと考える人は少なからずいらっしゃると思います。事実、別の友人にこの話をすると少し腑に落ちない様子でした。私も罪悪感を感じないわけではありません。ここからは、そういう抵抗を感じる人向けの記事です。

 

 その微妙な罪悪感の正体を自分の中で言語化すると、「結婚相手を評価するなんて、何様だ」とかそんな感じになりました。

 しかし考えてみると、この「何様だ」という感想が何を言っているか不明です。調べてみるとこうあります。

何様のつもり

読み方:なにさまのつもり
別表記:何さまのつもり何サマのつもり

自分どれほど偉くなった気でいるのか、お前はそんなにえらい身分ではない、と反語的に問いかけ表現。「様」の語によって「高い地位身分にある某」を示し表現
 

 なるほど、つまり、「お前は結婚相手を上から目線で評価している。ともに歩む存在を選ぶのにあたって理想を押し付けられる身分ではないはずだ」といったニュアンスがこの場合の「何様だ」には含まれていそうです。

 しかし考えてみれば、この理論はおかしい。何故なら、二人はまだ「ともに歩む存在」にはなっていないし、理想を押し付けているわけでもない。むしろ逆で、最初から理想を満たしていない人を矯正しようとしない。たくさんいる異性の中から自分の求める哲学に合致する異性を見つけ、アプローチしている。それは非常に合理的というか、そもそもマッチングってそういう意味ですよね。

 

 だから、少なくとも「何様だ」と感じることは筋違いです。しかしそのことを把握してもなお罪悪感は存在する。考えうる他の反対意見も見てみましょう。

  • 「相手をうわべで評価している」→少なくとも友人のリストを見る限り、とてもじゃないがうわべのステータスではない。インカムの話とか皆無だし。内面に対する要求事項を確認するために行動を共にする時間は最低限あったのだろう。
  • 「初めから見る面を決めていたら、価値観が固定されてしまいつまらない人生になる」→理解はできる。ただし、その心配は「罪悪感」にはならないはずだ。それに、リスト側を随時修正していけば問題はない。
  • 「結婚前であっても相手のことを値踏みするようで失礼な行為に当たる」→これが何故失礼な行為に当たるのか。

 この三つめが恐らくカギを握っている。

 ――「あなたの人柄、思想、もしくは社会的地位についてですが、私の考える項番2と4を満たしていないため、この度は見送らさせていただきます」と相手にはっきり認識されるのは誰でも嫌だから自分もしないべきだ――

 これは間違った理論だ。まず第一に、「はっきり認識されていること」を相手が知る手段はない。リストを相手に見せびらかすような性格の悪い人間の話はしていない。

 第二に、リスト化しなくても我々は上記のセリフのようなことを頭の中で展開している。

 人間、婚活するにあたって相手の値踏みはしているはずで、そこら辺にいる人なら誰でもいいという訳ではないはずだ。にも関わらず、「値踏みを失礼と感じる」ところに謎がある。

 

 そこでポイントなのが、この行為の嫌なところを「認識されるのが嫌だから」と自分を基準に考えているところにある。

 

 つまり、我々は相手に同じように評価されることを恐れているのではないか。

 自分の生き方として、「他人の要求事項を明文化するリストを作成する」ということは、自分の他人付き合いについて一切の責任を負うことを意味する。

 他人との関係がうまく行かなかった場合、リストの作成段階で自分が間違えていたことを意味するし、もし自分が他人に嫌われたりしたら、相手側の要求事項を人格的に満たしていなかったことになる。これを過酷だと感じる人は多い。

 

 本当は、値踏みを「したくないからしない」のではなく、「されたくないからしない」のが正しい。

 「自分自身も評価をせず、なあなあにすることで自分本来の実力と向き合わないで済む」「明文化しないことで『本当の自分は何でもできるのだ』と信じ込むことができる」というのがリスト化しない最大の動機なのではないかと思った次第です。

 だからこそ、私とかはこんなに合理的な行為なのに忌避してしまうのだろうなーと思った。自分の生き方に自信を持っていて、自分のできることできないことを割り切っていないと、罪悪感なしに正確なリストを作ることはできない。

(初めから交際相手を駒のように考えている人はまた別でしょうけど)

 

 という訳で私もリストを作り、そのトップに「自分が面白いと感じるものが、なぜ面白いのかを考えることができる」と書くために、まず積んでいた本を読むことで自己啓発しているところです。うーん何かが間違っている気がする。

 

 ではこんなところで。

 

※いつも思うんですが自分の考えていることって周回遅れで、皆とうの昔に気が付いていることなのだろうか。